2020年9月6日 聖霊降臨節第15主日礼拝
説 教 キリストのしもべ
2020-0906shuuhou聖 書 ローマの信徒への手紙1章1~7節
コロナ・ウィルス禍の中で自粛が叫ばれて久しくなりました。生活面で自粛する余り、街の商店、飲食業、そしてホテル、旅館などの経営が厳しくなり、休業、倒産に追い込まれるようになりました。そこで政府は経済対策の一つとして、Go to travel キャンペーンを進めました。
「なぜ人は旅をするのか?」「それは旅をすることで違う人生を歩みたいからだ」
教会のみなさんも、この夏にいろいろと旅行を考えてこられた方もおられることと思います。しかし、このコロナ・ウィルス禍の中で旅も自粛された。
さて、本日からローマの信徒への手紙(以下ローマ書)を講解説教しようと計画をたてています。8月までヨハネによる福音書を約3年半かけて説教してまいりました。17章までですが。18章からイエス様の受難と十字架、そして復活へと進みますが、しばらくお休みして、来年のレントに入る時に再び、18章から説教しようと考えております。
ローマ書はいわずとしれたパウロの書簡です。いわゆるパウロ書簡のうち最大で、手紙と言うより神学論文のようです。他の書簡のような身近で個人的な交わりの言葉や、教会のあり方、問題や課題についてはありません。もっとも最後のところで個人消息が出てきますが。
パウロにとって、ローマは特別な存在でありました。「そこに山があるから山に登る」登山家がやむにやまれない思いで山に登るように、パウロもそこにローマがあるからローマに行く。興味本位の物見遊山ではありません。ローマに対する熱情を持っていました。福音を携えて、宣教の旅に出たパウロの最大の中心はローマでした。使徒19:21、23:11。
そのパウロの思いが、ローマ書にこめられているように考えます。パウロは宣教の旅をしながら、そこで教会を立てました。コリント、エフェソ、フィリピ、テサロニケなどはパウロの宣教の結果です。まだ誰も宣教の手が届いていないところに福音を宣べ伝えに行く。そういう野心と申しますか、パウロはパイオニアでもありました。同時にパウロは、手紙を書くことによって、キリストの教えを論理的に構築した人物でもありました。今でいう神学者でもあったのです。信仰義認の教え、イエス論、教会論、宣教学などパウロなしにはキリスト教も教会も発展しなかったのではないかと言われます? 神がパウロを用いられた。そこにパウロの召命感がありました。使徒としての明確な自意識です。
さて、手紙の冒頭は挨拶です。その挨拶の中で、パウロは自己紹介をします。まず、神のしもべ、キリストのしもべとして自己を紹介するのです。
1.キリストのしもべ
1節
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから
簡潔にパウロは自己紹介します。そこには大きな誇りと揺るぎないイエス・キリストとの信頼関係を見ることができます。
しもべは、奴隷です。誰も好き好んで奴隷になる人はいません。奴隷は、主人に仕えるものです。主人の命令を守り、忠実に実行しなければなりません。
わたしたちは誰のしもべでも奴隷にもなりたくありません。第一、自由がありません。自分の好きな時に好きなことをする。これが自由です。奴隷はいつも、主人の命令を待ち、一声かかれば即座に従うのです。24時間、主人の意志に拘束されます。束縛されるのです。今の自由な社会からみれば、苦しみです。不幸です。誰が好んで奴隷になるでしょうか?
でも、好きで奴隷になることもあります。自由意志で奴隷になることもあるのです。恋の奴隷といいます。愛する人ができたとき、その愛のために奴隷になります。愛に拘束されることが喜びです。愛に縛られるのが幸せです。また、野球などスポーツ選手は、好きで拘束されます。24時間野球漬けってこともあります。音楽、楽器の練習などもそうです。芸術活動もそうですね。
そして、何よりも神に捕われる。旧約聖書には、神のしもべが幾人かいます。「神のしもべ」として聖書に記されていることほど幸いなことはありません。モーセは神のしもべとして、評価されました。信仰の人、祈りの人、服従の人。神のしもべは民族の英雄であり、信仰の模範であり、神が選ばれた人間だったのです。最大級の賛辞、これが神のしもべという名称です。
パウロは、自分のことをキリストのしもべとしての自意識を持っているのです。
2.イエス・キリスト
誰のしもべとなったのでしょうか? イエス・キリストです。
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
教会のかしらであり、福音の中心であるイエス・キリストこそがパウロの主人です。パウロは、かつては教会の迫害者であり、イエス・キリストを否定したものです。敵対者であったのです。ダマスコ途上で復活したキリストに出会うまでは・・・(使徒言行録9章)。自分が迫害し、滅ぼしさろうとしていたもののために、今度は、それに仕え、あまつさえいのちをかけているのです。
パウロを変えたもの、それが福音であり、その中心はイエス・キリストであります。
五条大橋で牛若丸の刀を奪おうとした武蔵坊弁慶は、若者の牛若丸に敗れ、家来になり、その牛若丸のためにいのちを捨てることになります。それは弁慶にとって口惜しいことでしょうか。主君とともに生活し、仕え、いのちを全うすることは名誉なこと、栄誉、喜び、感謝、願ってもないことです。幸いといってもよいでしょう。
人は、誰かのために生きたいと願っています。最高の方のために生き、死ぬことが最高・最大の生きる意味なのです。
そのために生き、そのために死ぬ。それをわたしたちは、人生をかけて捜し求めているのです。パウロにとって、生きることはキリスト、死ぬことも益でありました。そのキリストによって、選び出され、宣教に生き、そして死んだのです。献身ですね。
しもべとなること、奴隷となることは、献身です。みずからを献げるのです。与えるのです。しかも、最高の価値、最高のものに。献身したゆえに、それは喜び、感謝、みずからを献げるものがあること。それこそが人生の最高の喜びであり、感謝、光榮です。
天地創造の神様に自分自身を献げる。生涯を送る。
献げる相手は、律法ではありませんでした。イエス・キリストです。キリストの召命により、その呼びかけに答えたのです。
応答の人生。わたしたちも神の呼びかけがあります。それにこたえること。それが人生を豊かにします。自分のためにではなく、神の栄光のため。
しかし、それこそが自分のためにであったのです。なぜなら、神は最善のものをもって、お返しくださるのです。それは命、永遠のいのちです。祝福ですね。
イエス・キリストはわたしたちの主です。主なる神、わたしたちはイエス様を信じ、従うしもべです。そこに大きな恵みと祝福があります。
祈ります。