2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日礼拝
聖 書 ヨハネによる福音書17章20~26節
説 教 究極の祈り
17章全体はイエス様の祈りです。14章から16章まで弟子たちを前に告別の説教をされたのちに、祈られました。ご自身のために、弟子たちのために。祈りは、弟子を聖別し、派遣する祈りです。そこに教会のかたちがあります。伝道するためですね。使命を与えられたのです。そこに、聖霊の働きがあります。何度も聖霊、助け主、ともにおられる、パラクレートス、聖霊を送られる約束をされました。その弟子たちを通してイエス様を信じる者が起こされる。イエス様の祈りは、その人たちのためにも祈られているのです。すなわち、わたしたちです。すべてのクリスチャンです。
祈りの中心は教会のためです。そのための弟子作り、訓練でした。それは
本日の聖書を三つのところで、心に留めることができます。
第1は、一つとなるため20節
「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」
「彼ら」とはイエス様が3年半一緒に生活を共にし、訓練された弟子たちを指します。また、「彼らの言葉によって」とは、弟子たちが伝道して、イエス様を信じるようになった人たちのことです。ペンテコステ後の教会の群であり、2000年後の今に至るまで、代々にわたって宣べ伝えられた福音を聞いて信じた人たちです。わたしたち、キリスト者を指します。
21節以降23節までをお読みしましょう。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」
実にこのところでは、一つという言葉が繰り返されています。イエス様は、十字架にかかられる直前において、弟子たちだけでなく、将来の教会、代々にわたって、主の再臨にいたるまで福音を宣べ伝える教会のために祈られているのですね。それは一つとなるようにとの祈りです。
父と子、創造主なる神と御子イエス様は一つ、聖霊による三位一体。イエス様と弟子は一つ。そして、教会はひとつです。教会は、キリストのからだであります。教会のかしらはイエス様です。手もあり、足もあり、眼もあり、耳もある。見えないところでは、心臓、肺、肝臓、腎臓などいろいろあります。キリストのからだである教会は、さまざまです。一つとして同じ教会はありません。それでも教会はひとつです。キリストをかしらとしているからです。日本基督教団、ホーリネスの群の教会。そして教会の中もまたひとつです。仙台青葉荘教会の現住陪餐会員140名近い教会員は、キリストのからだとしてひとつです。
しかし、分裂させる働きがあります。サタンですね。教会に混乱、不信、破壊をもたらせます。悪だくみをしてくるのです。教会員同士を対立させ、争いを起こさせ、憎み合うようにする。巧妙なサタンの罠です。
サタンの最大の特徴があります。それは驕りです。高ぶり、高慢ですね。自分が第一になろうとすること。ちやほやされること。
荒野の誘惑でサタンは、イエス様を誘惑します。最大の誘惑は、権力と欲望です。サタンはイエス様を誘惑します。ひれ伏してわたしを拝むなら、繁栄と栄華をあげようというものです。
しかし、イエス様はサタンを退かせられます。神の言葉を第一とし、神のみ旨に従うこと、謙遜さ、おのれに死ぬことを第一とされるのです。
いま、イエス様は十字架への道行きの直前にある。死を前にして、一致を祈られます。ご自分の死、十字架により信仰者がひとつとなるように祈られている。
2 栄光
ひとつという言葉と同時に栄光という言葉が祈られています。22節と24節ですね。
24節
父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
ここのところは、5節にも祈られています。
天地創造の前から与えられた栄光は、神とおなじ身分であったイエス様、人間となられてその栄光を捨てられた。しかし、十字架という死に至るまで従順であられたことにより、よみがえられ、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえりとあるように、栄光を現されたのです。
その栄光を弟子たちやわたしたちクリスチャンは知っていますし、信じています。その栄光を教会は与えられているのです。二つの栄光があります。天地創造の前から与えられた栄光と十字架による栄光です。神の深いご計画。
3.究極の祈り 愛の内にいる
26節
「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」
一つとなること、栄光を現すこと、これらの結論はひとつです。それは神とイエス様の愛の内にいることですね。愛の内にとどまることです。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。
(15章5節、4節)
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(15章9節)
17章全体は、イエス様が十字架の死を前にして祈られた祈りです。ご自身のため、弟子たちのため、守られるように、派遣と献身です。そして、教会のために、わたしたちのために祈られました。それは究極の祈りです。遺言であり、今も生きている祈りです。言葉としては、分かっていても、祈りの内容を理解することは難しいと思います。そこには、霊性が必要です。祈りの霊によってのみ、理解することができる祈りです。
先週の説教題は、「聖なる佇まい」でした。佇まいを聖とする。そのような、態度、心境、境地ですね。霊的な次元といってもよいでしょう。イエス様がともにおられる世界、こころの状態です。まさしく、聖霊に満たされている状態ということができるでしょう。その栄光を見ることによって栄光を共にするという境地です。そのような祈り。イエス様と似たものとされる。これがホーリネスです。
御霊によってその境地に達していることからくる祈りです。それは信仰によって与えられるものです。何か修行をするとか、苦行によって獲得するものではありません。ただ、神の恩寵、恵みです。まさしく聖霊のバプテスマ、聖霊に満たされることです。
そこに神の栄光があり、御子イエス様の栄光が現わされるのです。教会の一致はそこにあるのです。教会が分裂したり、内紛があり、争っているところでは、神の御名は崇められることではなく、損なわれ、傷つくのです。それでもキリスト教なのか。教会なのかとみられます。
こうしてわたしたちがイエス様と結ばれ、父なる神様との交わりに生きるようになるとき、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)の言葉が現実のものとなるのです。
祈りは霊的なもの、イエス様の祈りは「聖なる祈り」(7月5日説教)であり、わたしたちも「祈りの霊」(7月12日説教)をいただいています。「聖なる佇まい」(8月2日説教)として聖別され、派遣されているのです。わたしたちは、イエス様の十字架の贖いにより救われ、永遠のいのちを受けています。その目的は実を豊かなに結び、神の国の恵みを証しするためです。そして、キリストの愛の内にとどまり、つながっていることです。
感謝しましょう。