2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝
2020-0712-shuuhou聖 書 ヨハネによる福音書17章6~10節
説 教 祈りの霊
前回に続いて17章6節から説教いたします。17章は、全体がイエス様の祈りです。その祈りで、前回説教しましたように1節から5節までは、ご自身のための祈りとなっています。父と子の関係と申しました。父なる神と子なるイエス様との関係です。ひとつということですね。
今日は、6節からです。この祈りは、弟子のための祈りということができます。マタイやマルコ、ルカによる福音書では、イエス様はよく弟子たちから離れ、1人で祈られたと記されています。お一人でどういう祈りをされていたのでしょうか。イエス様は祈りの霊に満たされていました。祈りそのもののお心であったと言えるでしょう。
・群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。(マタイによる福音書14章 23節)
・群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。(マルコによる福音書6章 46節)
・そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
(ルカによる福音書6章 12節)
・この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。(ルカによる福音書9章 28節)
ヨハネは、その祈りの一部を記しています。この17章ですね。神との親密な交わりの中で、ご自身の使命と達成のために祈られたことでしょう。使命と達成とは、十字架です。いつも、そのことがあったことだと信じます。その時のために神が人間となられたのです。そして、祈られていたのです。それが「神と等しい者であることを固執しない」(フィリピ2章6節)御子イエス様の謙遜さです。そして、十字架と復活により、栄光を現されました。
本日の聖書の箇所は、弟子たちのための祈りです。6~8節ですね。
1.使徒の選び
世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
神が人となられた意味と使命を達成するために、イエス様はご自身を現わし、使徒を選び、育てられたのです。世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。6節に「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」とあります。つまり、天地創造の父なる神様が弟子たちを選び出して、御子イエス様に与えられたというのです。光栄なことですね。それは、世の終わりの備えのためです。使徒を通して、ペンテコステにより教会が生まれ、使徒たちが教会を育てる。世の終わりまで、教会は主イエス様の救いの福音を宣べ伝えるのです。神の国の福音を教会に委ねられたのです。それは、霊の世界の告知です。霊的なのです。この世に人たちには、隠されているのです。
眼が開かれるというのは、そのことです。霊の眼が開かれる。霊のこころです。その霊によって、神のことを知るのです。
・自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
(1コリント2章14節)
・わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。(Ⅰコリント2章10節)
2.使徒を通してイエス・キリストを信じるすべての人のために
9~10節
彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
「彼らはあなたのもの」ということは、彼らとは、弟子たちのことですね。それは、のちの教会です。教会に属するすべてのキリスト者です。つまり、わたしたちです。「わたしたちは、神のものである」。これは真実です。
もう一度、整理しますと、順序があるのですね。まず、弟子、ユダを除く11弟子です。ペンテコステの後、弟子たちは使徒と呼ばれます。イエス様から伝えられた神の国の福音を宣べ伝える職務です。これにパウロが加わります。パウロは、教会を迫害したコチコチのファリサイ主義者です。復活されたイエス様に出遭い、回心し、使徒とされたのです。そして、わたしたちの教会、そしてキリスト者。
父と御子は一つであるゆえに、御子を信じる弟子たちは、神のものであります。
父は、御子に栄光を現されるように弟子たちにも栄光を現される。 神の教会、キリストのかしらなる教会です。
10節にそれが現わされます。
わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
教会の姿はイエスの栄光を現すためにあります。キリスト者の責任。世の人々にキリストを証しするという栄光と責任があるのです。委ねられたのです。伝道ですね。
本日の説教題は、「祈りの霊」とつけました。祈りの霊とは、イエス様がいつも父なる神とひとつであり、父のみ旨を求め、十字架という従順の道を全うされたように、わたしたちもイエス様の霊に満たされるように祈ることができます。 まとめますと以下のようになります。
1.わたしたちは、世のはじめより神に選ばれている。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15章16節)
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、異邦人に御子を告げ知らせるようにされたとき、私は、人に相談することはせず、 (ガラテヤ1章15節)
2.父と御子がひとつであるように、わたしたちも神とひとつとされている。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 (ローマ8章14、15節)
イエス様の贖いの恵みにゆえに、わたしたちも祈りの霊を与えられています。そこには、意味と使命があるのです。そのために、わたしたちは祈ります。自分の好き勝手な願いごとを祈るのではありません。使命と目的があるのです。それについては、11節以降から次回に説教いたします。
いまは、アッバ父よ、と天地創造の父なる神様に祈り、親密に交わる恵みを与えられたことを感謝しましょう。
祈ります。