聖 書 ヨハネによる福音書17章1~5節
説 教 聖なる祈り
2020-0705-shuuhou
15章、16章と説教してきましたが、この二つの章はイエス様の告別説教と言われています。14章での弟子たちの足を洗い、12弟子たちと最後の晩餐をされたとき、イエス様を裏切るユダがイエス様を売るために出ていきます。その後、15章、16章の残される弟子たちに告別の説教をされるのです。
この17章は、説教を終えて、祈りに入られるところです。古代から大祭司の祈りと語り伝えられてきました。
1.大祭司の祈り
大祭司とは、一年に一度、贖罪日に自分自身とイスラエルの民全体のために、いけにえとしてささげられた雄牛の血を皿に入れて神殿の至聖所に入り、そので血を注ぐという特別の職位です。ヘブライ人への手紙では、イエス様こそがその大祭司であり、世界全体の罪のゆえに動物のいけにえのかわりに、御自分をいけにえとして捧げられた。これが十字架の意味です。新約に生きるわたしたちの信仰です。イエス様は、まもなく迫ってくる捕縛と裁判、そして十字架刑を前にして、ご自身と弟子たちや後に残されることになるわたしたち教会のために、お祈りしてくださるのです。
祈りの言葉は、聖なる霊に満ちています。まさに聖なる祈りです。この祈りをイエス様は弟子たちがいるところで祈られた。それをのちに弟子のヨハネが書き留めたのです。そう信じます。
イエス様は、ルカ11章で弟子たちの求めに応じて祈りを教えられました。主の祈りですね(マタイですと6章です)。「天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ」と続きます。イエス様が弟子たち、そして、将来の教会であるわたしたちキリスト者のすべてのために主の祈りを教えられたのです。わたしたち、すべてのキリスト者が祈る祈りです。
この祈りは毎聖日の礼拝の時だけでなく、毎朝の祈りの時、昼も夜も、一日中祈られる祈りです。
ヨハネ17章の祈りは、大祭司としてのイエス様がご自身のために、そして弟子たちのために、将来の教会であるわたしたちキリスト者のすべてのために祈ってくださるのです。
今日のところは、祈りそのものです。祈りの言葉は理解できても、祈りの内容を理解するのは、祈りの霊と祈りのこころを持つことが必要です。霊的な言葉、霊の祈りです。
2.時が来た
さて、イエス様が祈られた祈りの内容をわたしたちも祈りの心をもって理解しましょう。1節には「時が来ました」と祈られます。
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」
このところは、時という言葉と栄光という言葉でもって祈られています。「父よ、時が来ました」。以前には「まだその時が来ていない」と言われていました。
ヨハネ2章のはじめ、カナの婚礼の時ですね。ぶどう酒がなくなったとの母マリアの言葉から、「わたしの時は来ていません」と言われたのです。しかし、かめに水を入れるように言われると、水が良いぶどう酒に変わっていました。「最初のしるしを行い、栄光を現わされた」とあります。
イエス様の時とは、十字架です。そして、十字架こそが栄光なのです。
3.栄光の主 父と子はひとつ
また、「栄光を現す」とは、全能の神の権威とちからがイエス様によって現わされることを言います。とくに、十字架において、その栄光がきわみにまで発揮されるのです。4節、5節にも祈りの言葉として語られます。
2節
あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
4節
わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
5節 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
イエス様はこの十字架という時において、すべての人である世を支配する権威を与えられたのです。父と子はひとつです。支配、統治された神の権威を十字架によって委ねられたのです。父のみ旨を行う従順さによって。
ここでまとめますと、御父と御子の関係がここに言い表されています。父なる神様、子なるイエス様はひとつということです。父なる神様が全能の神として権威と万物を支配されていると同じように、子なるイエス様も父と同じように権威と万物を支配する権能を持たれているのです。
しかし、肉体をもってこられた人間イエス様は神としての権能と支配を捨てられ、人間の弱さを身にまとい、あざけられ、十字架につけられました。しかし、三日目に甦られたのです。死に打ち勝たれたイエス様は、全能の神の栄光を同じように身にまとわれたのです。
フィリピ2章にあるキリスト賛歌ですね。6~8節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」
そこには、従順さ、謙遜、柔和、愛、平和の神として御子イエス様のご性質が現わされました。力を誇る、見せつけるのではないのです。使徒信条に告白される信仰の内容です。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」なのです。そこには、「かしこより来たりて、生けるものと死にたるものとを裁きたまわん」です。裁きと支配の権を持たれたのです。
4.永遠のいのち
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
イエス様は6章29節において、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました。いままた、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と祈られるのです。
イエス様は、神の独り子であり、神が遣わされたお方です。そこに数限りないしるし、奇蹟があり、命のことばを語られました。その奇跡と言葉は、神からの権威であり、ちからです。そして、何よりも重要なことは、その御子が十字架につけられ、わたしたちの贖いとなられたことなのです。
その言葉の本質的なもの、大切な意味こそが、この3節に示されているのです。
もう一度お読みします。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」
永遠のいのちという言葉は、旧約では1回限りですが(申命記32章40節)、新約では44回使われています。そのなかでも圧倒的に多いのがヨハネの福音書の17回です。
3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
5章 24節
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
5章 39節
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
6章54節
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
聖書が教える「知る」とは、知識として知るということではなく、人格的な交わりを通して知るということです。(創世記4章1節「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った」) 「交わり」において相手を深く「知る」のです。それが「いのちを持つ」「いのちにあずかる」ことを意味します。その「知る」こと「父なる神と子なるイエス様との永遠のかかわり」です。ヨハネの福音書3章34節はこう記しています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」と。
父なる神と御子イエス様はひとつであるゆえに、イエス様を信じること、そこに永遠のいのちがあるのです。この言葉は、霊的なものです。知的な理解以上の霊的なものです。奥義があります。神の国、神の領域の世界です。そういう知り方ですね。キリストのもとに留まる。深い交わり、親密さ。一体性。
わたしたちは、イエス・キリスト様を神の子と信じ、告白する時、新しい命を与えられ、神の国の永遠のいのちに与るのです。これがわたしたちの信仰であり、霊的な礼拝です。
今、十字架にかかる直前にイエス様は祈られます。聖なる祈りです。この祈りを聞いた弟子たちは、身が引き締まる思いでしたでしょう。そこに聖霊の恵みと導きがありました。わたしたちも、いま、2000年前のイエス様の祈りが今、この瞬間に祈られていることを覚え、感謝しましょう。聖霊によって父・子・御霊の三位一体の神のご臨在を覚え、感謝しましょう。
祈ります。