2020年5月10日 復活節第5主日礼拝

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝
聖 書  ヨハネによる福音書16章4b~15節(連続講解説教 第57回)
説 教  真理の霊

 

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みなさん、ご機嫌いかがですか。先週はゴールデンウイークでしたが、例年と違い、新型コロナ・ウィルスの感染防止対策のために、どこも閑散としていました。新幹線や飛行機で乗客率数パーセントでした。そのお陰か、地域によっては非常事態の自粛解除の自治体が現れるようになりました。ここ宮城県も一昨日、自粛が解除され、商店街は久しぶりに人手が多くなったとのことです。この調子で、コロナ・ウィルスの収束が来るように祈ってまいりましょう。

祈ります。

 

さて、本日は先週に続きまして、ヨハネによる福音書16章4b~から15節までを説教いたします。説教題は、「真理の霊」です。

 

1.4b~6節 イエス様の死は高挙、天の父への帰還

イエス様は、ご自身の十字架の死を何度も予告されています。しかし、イエス様の死は、単に死亡したということではなく、父なる神へ帰還であり、栄光の高挙であるということです。高挙とは、文字通り高く挙げられた、ということです。

「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」 使徒信条で告白するとおりです。

フィリピ書2章6節以下。キリスト賛歌と呼ばれる聖句です。 

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」

この「高く上げ」ですね。高挙と神学的に言い慣らされています。

それゆえ、イエス様の死は悲しみではなく、不幸でもない。喜び。勝利につながるものであります。イエス様を認めない人たちにとっては、十字架は単なる死であり、無駄死にです。しかし、イエス様は復活され、高く上げられた。ここからキリスト教が始まったのです。世界の歴史を変え、2000年の間、人々に希望を与え、生きる喜び、幸い、いのちの意味を教えてきたのです。

文学、芸術、音楽、人間の心と精神、魂の営みに希望、喜び、美、生きがいを与えてきたのです。霊感の源泉。聖霊の働きですね。聖霊の賜物です。

 

2.7~8節 聖霊―パラクレートス 同伴者、助け主 真理の霊

聖霊は、イエス様が父のもとに帰られた時にいらっしゃる弁護者、真理の霊です。7節。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」

弁護者とは、聖霊です。ギリシャ語でパラクレートスです。その意は、そばにいて慰めと励まし、助けを与えてくださる方。助け主、弁護者、同伴者とも訳されます。弁護者とは、裁判の場で、同伴され、弁護し、助けてくださる方でもあります。裁判の場で、真実を明らかにし、まことの裁きへと導かれるのです。なぜなら、聖霊は父なる神、子なるイエス・キリストから遣わされるからです。

8節

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」とあります。

文語訳では、「かれ來らんとき、世をして罪(つみ)につき、義につき、審判(さばき)につきて、過(あやま)てるを認めしめん」

本来は「明らかにする」という意味の動詞です(3:20)。それから「指摘する」とか「責める」という意味(8:46)があります。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(9節)

「世」はおもにユダヤ教世界とその指導者たちを指しています。ファリサイ派の人々、律法学者たち、祭司たちです。イエス様を十字架につけた人たちです。彼らはユダヤ民衆をたきつけ、会堂から追放し、迫害したのです。当時のユダヤ社会を支配していました。

「彼らがわたしを信じないこと」とは、イエス様を神から遣わされた方であると信じないことを指しています。そして、イエス様を信じる弟子たちを、罪を犯した異端者として裁判にかけ、会堂から追放し、迫害し、殺害するのです。ところが、聖霊はイエス様こそが神の子であると、その栄光を明らかにするのです。この神から来られた方に敵対することこそ罪であり、罪の中の罪、究極の罪であることを明らかにします。

前回も申しましたが、パウロの場合にそのことが顕著に表れています。パウロは律法に忠実で熱心な律法学者でした。イエス様を信じる者たちが律法をないがしろにするのを赦すことができず、キリスト者を見つけ出し、逮捕して裁判にかけ、罪ある者として断罪する働きをしていたのです。ところが、ダマスコ途上で聖霊の激しい働きに接し、復活されたイエス様に遭遇します。パウロは、イエス様の神の子としての栄光にひれ伏し、イエス様を信じる者たちを迫害していたのはイエスを迫害したのであり、それは神に敵対していたことであることを示されます。この体験によりパウロは自分が「罪人のかしら」であると悟ります。

「義についてとは、わたしが父のもとに去って、あなたたちがもはやわたしを見なくなること」(10節)

神に敵対することが罪であるとすれば、その反対に、神に喜ばれ受け入れられる在り方が義です。聖霊はユダヤ教のファリサイ派の人々、律法学者たち、長老たちが間違っていることを明らかにします。

ユダヤ教は、義とは律法を順守することであるとしていました。その結果、イエス様を律法に違反する異端者として処刑したのでした。ところが、神はイエス様を復活させて、イエス様こそ神の御心を行い、神に喜ばれる者として受け入れたことを公示されました。復活はイエス様の義の確証です。

「わたしが父のもとに去って行く」と表現されていますが、これはイエス様が復活して栄光の座に上げられたことを指しています。このことによってイエス様こそが義であると確証されたのです。
 

「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」 (11節)

「この世」であるユダヤの世界はイエス様を裁いて処刑しましたが、そのとき実は、イエス様を裁いた「この世の支配者」が、義人を罪ありとして処刑するというその不義のゆえに神によって裁かれたのです。新共同訳は、「この世の支配者が断罪されることである」と訳されていますが、他の訳は、「この世の支配者が裁かれた」と訳しています。

十字架の出来事は、実は「この世の支配者」が神によって裁かれた出来事なのです。その裁きはすでに行われました。ギリシャ語の原語は、裁かれたとして動詞は完了形が使われています。のちにエルサレム神殿がローマの軍隊によって崩壊しましたが、そのことをも射程にいれているということができます。その事実がユダヤ教指導層に対する神の裁きの現れなのです。

聖霊を知らない「この世」(ユダヤ教)の指導者たちは、神殿の祭司たちも律法学者たち、ファリサイ派の人々も、自分たちは律法に従って正しい裁きをしたと確信しています。イエス様を処刑したのも、イエス様を信じる弟子たち、キリスト者を告発し裁いているのも、律法に従った正しい裁きであると確信しています。しかし、聖霊が働く場では、復活されたイエス様の栄光が見えていますから、イエス様とイエス様を信じて言い表す者を裁く行為自体が、神に敵対する行為として裁かれているのです。

ヨハネ福音書では「裁き」は終末のことではなく、現在すでに始まっています(3:18~19)。神に属する者たちと神に敵対する者たちを「分ける」《クリノー》ことが「裁き」《クリシス》です。復活されたイエス様を信じる者たちの内に働かれる聖霊が、現在すでに始まっている「裁き」を見させます。ヨハネ福音書では、光と命の領域と死と闇の領域が厳しく分けられていますが、それはこの「裁き」の結果です。

 

3.12節 完全な勝利の予告

12節以下は、再度、聖霊の働きについて記されます。イエス様の十字架の死は、理解できないことであるのです。しかし、聖霊は、真理の霊として、十字架の真の意味を理解させてくださるのです。βαστάζειν 直訳は、「耐えられない」です。十分に理解できない。ここに啓示があります。聖霊は、真理の霊として、「耐えられない」者に堪える力を与えてくださるのです。聖霊によって明らかになされる知識ですね。理解不能だったものが、理解できる。哲学、医学、科学的知識、専門用語、ターム(terms)の熟練度です。

コリントの信徒への手紙第一 13章12節を読みましょう。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」

そういう理解ですね。顔と顔とを合わせて見る。そこに聖霊のお働きがあります。聖霊の導きに感謝し、従い、イエス様の十字架の贖いの恵みを真に感謝しましょう。罪の贖いを受けた者が真理を知るのです。

祈ります。