2020年5月3日 復活節第4主日礼拝

2020年5月3日 復活節第4主日礼拝

聖 書  ヨハネによる福音書15章26~16章4節a (連続講解説教第56回)

説 教  愛のない信仰

本日は、ヨハネによる福音書15章6節から16章4節の前半までのテキストを通して説教いたします。

15章26節から

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」

このところは、主イエス様が十字架にかけられ、死にて葬られることによって起きることが予告されています。弁護者、真理の霊としての聖霊が来られるということです。この予告は3度語られます。第一番目は14章15節以下です。第2番目は本日の聖書、15章26節以下、先ほどお読みしました。第3番目は16章5節以下ですね。ここでは、第一番目と第二番目よりもさらに詳しく、聖霊の働きについて語られています。本日の第2番目については、実は15章18節からの段落で、迫害の予告と共に語られます。18節から25節までについて、前回(3月8日「住む世界が違う」)説教した通りです。

従って、26節27節は聖霊について語れていますので、次回に説教するように備えてまいります。本日は、16章1節から4節について説教します。お読みします。

「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」

あなたがたとは、イエス様の弟子たちであり、将来の教会の信徒です。そして、歴史的に迫害にあった教会の群です。それは異教の地でイエス様を信じる信仰者でもあります。

とくに会堂から追放されるとありますから、直接的にはユダヤ教の会堂にいるイエス様の弟子たちとキリスト者であります。人々とはユダヤ教のファリサイ派の人たち、律法学者、長老たちとその仲間、広くユダヤ教徒を指します。その人たちは、弟子たちを追放し、迫害するのです。

本日の説教題は、「愛のない信仰」としました。

信仰はときに、狂信的になることがあります。熱心であることはよいことですが、ときに冷静な判断力を失って、激しく信じ込むようになる。それが狂信的と呼ばれるようになります。排他的。独善的ですね。自分が信じているものだけが最善、最高の価値であり、他のものを認めない。尊重しない。

それは信仰面において信仰的、敬虔な時代であったときでもありました。ファリサイ派の人たち、長老、祭司たちは、聖書に忠実でありました。聖書に書いてあることを忠実に守り、行ってきたのです。断食をすること、安息日を守ること。律法の規定に忠実ありました。しかし、律法を守れない人たちに対しては、罪びととして非難し、差別し、自分たちの優位を誇っていたのです。

イエス様の時代、ファリサイ派、律法学者たちは、権威を持ち、尊敬され、力を持っていました。社会をリードしていたのです。イエス様を十字架につけたのは、彼らの信仰の熱心さのゆえです。イエス様はあえて彼らの主張する律法を守ることをなさいませんでした。安息日に病人をいやいたのです。律法違反と糾弾されました。イエス様のやり方に我慢できなかったのです。神を冒瀆する者として攻撃したのです。

ファリサイ派の人たち、律法学者、長老たちはぐるになって、民衆をたきつけてイエス様を十字架につけました。しかし、イエス様は三日目に甦り、復活されました。予告された通りです。50日後、これも予告された通りに聖霊が降臨され、教会が誕生しました。強い勢いで教会の宣教の働きが進められ、イエス様を信じる者が大勢起こされました。

その危機感を持った既成のユダヤ教の人たちはできたばかりの教会を迫害したのです。これも予告された通りです。ステファノが殉教し、キリスト者は会堂から追い出され、ディアスポラとして散り散りに離散しました。しかし、神様のご計画はこの迫害を通しても進められたのです。世界中にキリスト教の教えである福音が広まったからです。最初は迫害者であったパウロがその先導者となりました。

本日の聖書に2節、このように記されています。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」

迫害して、クリスチャンを殺す者が、自分は神に奉仕していると考えているのです。

何という矛盾でしょうか? 神に奉仕する者が、その信仰ゆえに、人を殺すことを正当化しているのです。

石をもて殺す。ヨハネ8章には、姦淫の罪で捕らえられた女がイエス様のところに連れてこられます。律法学者やファリサイ派の人々は、「律法では、こういう女は石で打ち殺せと命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」とイエス様に問いかけます。イエス様は言われます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。しかし、誰も率先して石を投げる者はいませんでした。罪のない者はいないからです。良心はあるのですね。

キリスト教の歴史において、すなわち教会においても、狂信的な信仰が人々を支配した事実があります。歴史的に、教会はその権威と権力を持った時、教会が定める信仰に合わないものを異端として退け、焚書(書物を焼いてしまうこと)、火刑(火あぶりの刑)、十字架の刑など考えられる拷問、見せしめ、公開処刑を行ってきました。中世の異端審問。自分の信仰にあわないことをサタン呼ばわりする。狂暴になり、結果多くの悲劇を生みました。

現代においても、宗教の違いでむきになり、他宗教の人たちを攻撃し、情け容赦なく、迫害、ないしは死に至らしめる事件が多発しています。

そのひとたちの信仰は何なのでしょうか? 独りよがり、独善、他者への憐み、愛のなさ。

コリントの信徒への手紙 第一 13章には、信仰と愛についてパウロは記しています。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」

「愛のない信仰」は悲しいことです。聖書は、信仰と希望と愛。そのうち、もっとも大事なことは愛であると記しています。

では、何を信じるのでしょうか? 神の愛と神の憐みですね。自分のような罪人を愛してくださる神様。独り子を十字架につけるほどに、わたしたちの罪を赦し、贖ってくださる神様のご愛です。本来わたしたちが罰せられるべきところが、罪のないイエス様が十字架で罰せられた。それが贖いです。神の憐みです。その神の愛を信じるのです。そこには喜びと感謝、賛美が溢れます。

今年度の教会標語「愛と献身」です。 聖書は、マルコ12章30節

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」

第二の掟である「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」がある意味は大きいですね。神を愛すると言いながら、隣人を憎むことはできないのです。

ヨハネによる福音書15章

イエス様の告別説教です。愛し合いなさい。赦し、裁かないこと。自分が神の座に坐って兄弟姉妹を裁かないこと。愛のない人にならない。愛と赦し。

教会に愛や喜び、感謝、こころの温かさがあるとき、そこに神はおられます。聖霊なる神様がお働きになっているのです。

わたしたちの信仰に愛があるように、喜びがあるように、感謝があるように、

なぜなら、神は愛なのです。

祈ります。