2020年4月5日 受難節第6主日礼拝
説 教 受 難
聖 書 マルコによる福音書15章21~32節
冤罪事件が最近テレビや新聞のニュースで報道されていました。滋賀県(2004年に滋賀県内の病院で患者の人工呼吸器のチューブを外して殺害したとして逮捕されたひとりの女性に、3月31日、大津地裁の判決公判で無罪が言い渡された冤罪事件。20代から12年もの間、無実の罪を背負って刑務所で服役し、2017年8月に満期出所した。(滋賀の人工呼吸器外し殺人事件、再審で無罪判決。事件発生当時、看護助手をしていた西山美香さん。)
狭山事件、免田事件などが有名です。そこには国家権力の象徴たる警察権の乱用があります。何の根拠もないところに、逮捕され、起訴され、裁判にかけられる。しかも、罪をおかしていないのに自白の強要が暴力的になされます。これは恐怖です。また、マスコミで犯罪者扱いされると社会的に抹殺されかねません。容易に汚名を注ぐことは難しいものがあります。
冤罪とは、無実の罪 ・ 濡れ衣(ぎぬ)を着せられること ・ 誤審・でっちあげによる犯罪 ・ 「身に覚えのないこと」などであります。
イエス様もある面では、冤罪事件で逮捕・起訴され、裁判にかけられました。福音書に記されている通りです。作られた事件であり、でっちあげた証拠によって死刑が宣告されました。そして、十字架刑に処せられたのです。しかも罪のない方を全員でもってその存在を拒否し、抹殺したのです。そこには、あるべき正義はありません。イエス様を殺害したのは当時の宗教家たちです。信心深いとされ、神の律法を忠実に守っている長老、祭司長、ファリサイ派の人たちです。彼らは、律法を守り、従って神様に忠実であり、従順であるとされた人たちです。人を生かすべき神の教えを守る人たちが無実の人を殺したのです。暴虐が公然となされたのです。
本日の聖書は、人間のこころの醜さ、惨たらしさが露にされて驚くばかりです。ここまで、人間は醜悪になれるのか、罪あるものなのかと深く反省させられます。しかも、無抵抗の人に、罪なき人に、無辜の人に。この思いは他人事ではなく、自分自身のこころにも醜さと深い罪性があるのだという反省です。
イエス様は、みんなによってたかって拒否されます。
第一に弟子たちに拒否されました。ユダに裏切られ、弟子たちは逃げまどい、雲隠れです。ペトロはイエス様についていこうとするのですが、最高法院の庭で「あなたもイエスの仲間だ」と言われると拒否してしまいます。イザというときに、気持ちが萎えてしまったのです。イエス様は、孤独の真只中におられたのです。
第二に民衆です。イエス様は多くの人々を癒されました。死人を甦らせ、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、目の見えない人を見えるようにされました。その神の力によって、癒しと甦りを数多く行われたのです。イエス様の行くところ、大勢の人たちがあとを追ってきました。その説教を聴き、奇蹟の力といやしのわざに期待してきたのです。
その民衆は、いま誰もいません。「ひとりでもいるだろう!?」
そう叫ばずにはいられません。まことに訝しく思います。もし、誰もいなければ、まさしく「人でなし」です。民衆は救い主イエス様よりも、バラバ・イエスを選び、イエス様を十字架につけるように叫ぶのです。
イエス様は弟子に捨てられ、民衆にも捨てられたのです。
第三に、イエス様はもうひとりの方に見捨てられます。誰でしょうか? 家族? 母マリア? マルコ福音書3章にはマリアと兄弟が、イエスは気が狂ったと思い取り押さえにきたという記事があります。
身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。(3・21 口語訳)
イエス様は家族にも捨てられたのでしょうか?
いいえ、それ以上です。人というか、お方ですね。それは父なる神です。
神に見捨てられたのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)
さて、本日の聖書は、ローマ兵の嘲笑と侮辱、殴打、鞭打ちがあります。十字架の道行き(ドロローサの道のり)にて、群集の叫喚、嘲笑があります。ゴルゴタに着くと、そこでも群集のやじと侮辱が襲い掛かります。
このテキストにはすぐれて文学的と申しますか、明らかにある問いをもって記事が記されています。それはイエス様とは何者だったのかという問いと答えです。マタイの最初の章で、系図が記されています。アブラハムから続き、ダビデ家の系図へと引き継がれます。それはダビデの血統を持つ王としてイエス様です。誕生のときも、東から来た博士たちは、生まれたばかりの王の子イエス様に贈り物を捧げます。マタイのメッセージは、イエス様はイスラエルの王として来られ、生まれたのです。それがメシアでした。
しかし、今イエス様はどうでしょうか? 確かに、ユダヤの王としての罪状書きです。ギリシャ語、ラテン語、ユダヤ語、アラム語の四つの言葉で記されていました。26節
「罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった」
ローマの兵士たちはイエス様を王としてからかいます。カリカチュア、戯画化です。王や身分の高い人が身にまとう紫の外套、王が手に持つ笏、王の冠です。
笏の替わりに葦の棒。それでイエス様は何度も小突かれ、叩かれます。そして王の冠は宝石が鏤められているではなく、棘(いばら)の刺々しい冠です。
従者もいます。バラバは釈放されましたが、なお二人の犯罪人がいました。彼らはイエス様を真ん中に十字架につけられます。二人は従者の役割を果たしています。イエス様を中央に一人は右に、一人は左に十字架につけられます。しかし、イエス様の弟子たちがイエス様を見捨て背反して逃げたように、彼等もまたイエス様に背きます。 32節
マルコは、二人ともイエスを拒否します。
しかし、イエス様との出会いで受難の時に、キリストと出会った人がいるのです。キネレ人シモンです。21節以下では、アレクサンドロスとルフォスの父と紹介されています。
イエス様は裁判によって疲弊し、四十に亘る鞭を打たれて疲労困憊の極地にあります。自らがかかる十字架を背負って歩くこともできません。そこで、ローマ兵はたまたまそこにいたキネレ人シモンを掴まえてイエス様の十字架を担がせたのです。強制的に担わせた十字架です。しかし、のちのちこの十字架はシモンと子どもたちにとって大きな意味を持つものとなります。シモンは自分が担いだ十字架を光栄に感じる時が来るでしょう。まさに、強いられた恵みとなったのです。
さて、王でありながら弟子に裏切られ、民からも見捨てられる。そのようなみすぼらしい、落ちぶれた王をあえてマルコは描いています。その意図は何でしょうか?
聖書の言葉が成就した。王が見捨てられることも、聖書の成就なのです。
マルコはおもに詩編22章を記して、聖書の預言の成就としています。
イエス様をみる者はみなそのようにあざ笑い、侮辱し、唾を吐きかけます。見物人、野次馬ですが、積極的な参加者です。
24節
「その服を分け合った。だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」
は、
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。(詩編22:19)
29節
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
詩編22篇8節
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
31節
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
この「信じてやろう」という言葉は、挑発的です。それは人間が神を支配し、意のままに指図する言葉です。神に命令し、うちでの小槌のように人間自身の都合のよい、自動販売機の奇跡付き商品を出させるような言葉です。その裏には、「信じてやらないぞ!」という脅迫めいた言葉が隠れています。わたしたちの祈りもある面、そういう脅迫があります。「祈りを聞いてくれないと信じてやらないぞ」という意図があります。
神はしかたなく祈りを聞き、わたしたちのわがままを受け入れてくださるのでしょうか。
詩編22篇7節は、すごい言葉が書かれています。
わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」
まことにイエス様は、人間の屑、民の恥として忌み嫌われ、疎外され、虐待されたのです。そして、口を開かず、黙々として死に赴かれた。口を汚すことなく、こころに悪意を持つことなく、悪に悪を返さず、呪いに呪いを返すことなく、むしろ赦しと祝福を祈られた。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」
(ルカ23:34)
これがわたしたちの救い主であり、神であるのです。
わたしたちもかつては、人を呪い、悪を繰り返し行い、こころが汚れていたものです。
イエス様は昔も今も、わたしたちのために執り成しをされ、罪を赦してくださっています。十字架は、わたしのため、わたしの罪の赦しであることを信じ、いつも新しくされて生きていきたいと願います。